体は大人、頭脳はカオス?予備校講師・バーのマスター・物書きetc.多動ワークの実態は…
ADHDとASD傾向が強い5歳と336ヶ月の児童です。体は大人ですけど、中身は大人として生きていくにはあまりにお粗末なスペックでして…(苦笑)
仕事に関してですが、昼間は、フリーランスで主に予備校での講師業を請け負って生計を立てています。メインの科目は高校の国語ですが、英語や日本史・世界史・地理、倫理、政治経済、現代社会なんかも教えたりしています。たまに数学まで手を出したりしますし。とにかく雑食で調べることが大好きな特性を活かして、色々教えています。
一方で、夜は、「発達障害BAR The BRATs」の代表としてお店に立っています。このBARは、2018年の2月に僕が仲間と立ち上げたBARです。現在は表参道で週に3日(木・金・土)だけ営業しています。幸いにも連日お客様に恵まれ、経営的には非常に順調な滑り出しとなっています。 また、事業形態としては今後、より社会の方のニーズに応えていけるような企画を立ち上げていこうと考えています。オンライン・オフラインを融合したコミュニティ(サロン)を立ち上げたり、ブログ・youtubeで発達障害に話題を絞らずに幅広く情報発信に努めております。まあ、ADHDらしく手広く活動していると言えば、恰好がつくものですが…、実際はしっちゃかめっちゃかになりつつあります(笑)
加えて、「日刊SPA!」にて「発達障害BARにようこそ」という不定期連載(月2~3本)を持っています。ですから、指導を行ったり、教材研究をしたり、またBARカウンターに立ったりする以外の時間はほぼすべてPCとにらめっこです。本当に文章を書くことに対する抵抗が少なくて助かっています。
昨年、ひょんなことからLITALICOの方とご縁をいただきまして、今日はこのLITALICO仕事ナビで、僕なりの発達障害との付き合い方についてお伝えできればと思います。
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大嫌いなのに嫌いになれない。「発達障害」と歩んだ半生
発達障害という言葉がゆっくりと社会に定着し始めて数年が経過しました。
障害を「個性」と呼んでみたり、または「働かない・勉強出来ない言い訳」と非難してみたり。みなさん、色々と思うところはあると思いますが、僕にとっての発達障害はというと…、なんと言えばいいのかな、うまい言葉が見つからないので、「とても大嫌いだけど、嫌いになれない変な奴」という言葉で表現してしまいます。
僕の場合、かなりADHDとASDの傾向が強いため、社会生活では小さいころからかなり苦労をしてきました。
たとえば、忘れ物をして先生に怒られるのはもはや日常でしたし、授業もボケーっとして話を聞いていないことが多かったですね。気になることがあれば、じっと座っていることが苦痛で、図書室で勝手に調べものをしに行ったり、とにかく自由気ままに過ごしていました。
たとえば、「ひざ小僧」という単語が国語の教科書に出てきたら、なんで「ひじ小僧」って言わないんだろう?とか考えるような子でした(笑)そんなことより問題を解けと言われようものなら、「もう解いています」とドヤ顔で返したり…ひどい学生時代です。
そうしたADHD的なエピソードだけでなく、僕にはASD的なエピソードもたくさんあります。他人のロジックに矛盾を感じたら、その矛盾が解決するまで攻撃をやめなかったものです。
なぜ制服を着る必要があるのか、生徒手帳を発行しなくなった理由はなにか、気になることがあると友人、教師に関わらずひたすら質問攻めをしていました。本当に当時の僕に対して、「もうちょっと周りを見て過ごせよ」ってアドバイスをしつつ、ご迷惑をおかけした方々に謝罪したいと思います。
このようにプライベートでも仕事においても、この特性は非常にやっかいな奴でした。
時間管理は出来ない、嫌なことは先延ばしする、コンセプトがズレてしまうとてこでも動かなくなる、議論すれば、相手を論破するまでやめず必ず喧嘩になる……。本当に本当に勘弁してほしかったです。
職場を良くしようと自分なりに頑張れば頑張るほど、周りに迷惑をかけ、孤立し、最後は契約を打ち切られてしまう。仕事に対する自信を失い、家庭は崩壊し、離婚まで経験しました。
それでも僕は、自分のこの性質が嫌いになり切れないのです。
理由はとても簡単で、その特性も含めて僕自身だからです。
注意散漫な一方で、僕はあらゆるものに関心を持ち、すべてを緩やかに接続させ、横に広がった思考をすることが出来ます。学問においてこの「横断的思考」というものは非常に有効です。仕事においても、一つの仕事から様々なアイディアを出すことが出来ますし、人前で話をする際も、相手の好みに合わせて話題を広げることが出来ます。
プレゼンテーションをさせると、綺麗なロジックを組み立てるので、いい出来だと褒められることが多いです。他人を攻撃することに使えば喧嘩の原因となった、美しいロジックへのこだわりと徹底的に言語化して考える癖は、人前で話をする際にはこの上ない武器となってくれています。
特性が評価されるかは社会や時代に左右される。だからこそ大切にしたいこと
とはいえ、今お話したような僕のケースを取り上げて、だから発達障害全てが「個性」だと言い切ってしまうのも、僕は賛成しません。なぜなら、個人の「特性」と社会における「評価」は一致しないからです。
どんな人間の特性も、それを評価する社会と切り離すことは出来ません。あえて極端な例で考えてみましょう。たとえば、ボールを打ち返すこと“だけ”に特化した動体視力を持ったプロ野球選手がいたとします。彼はその特性を活かし、ホームランを重ね、その年の本塁打王を獲得しました。その結果彼が年俸で5億円を手にした場合、その金額を受け取ることが正当であるか否かはかなり意見が分かれるのではないかと考えます。
僕の意見を言えば、「彼がその年収を受け取ること自体に問題はないが、その評価の仕方は検討すべきだ」となります。なぜなら、たしかに彼は生まれ持った特性を活かし、見事成功したと言えますが(もちろん彼はその活躍にふさわしい努力もしたことでしょう)、そもそも野球というスポーツがなければ、特化した動体視力を活かすことが出来なかったからです。
どのような特性であってもいいのですが、その評価は実は一定ではなく、かなり時代や社会に左右されてしまいます。僕の文字を書く、話す、そしてロジックを組み立てるという能力は、現代日本という社会であって初めて評価されたのだと僕は思うのです。
一つは障害の特性が見えにくいこと。もう一つは、その特性が評価されるかどうかは運次第であること。
僕はもちろんとても苦労しましたけど、同時に自分が評価される社会に生まれたことにとても感謝しています。
学業も仕事も結婚も、すべて一度壊れてしまいましたが、今こうして文章を書き、自分の体験を伝えることで生計を立てられるようになったのも、この「障害」としての「特性」のおかげなのです。
ですから大切なことは、たまたま特性が「障害」や「病気」と分類される時代に生まれてきただけであると考えること。そして、障害があろうとなかろうと、困っていることがあれば助けてあげること。この当たり前の輪を広げることだと思います。
理想論かもしれませんが、そうした行いをすることで、死後自分が生まれ変わり、今度は自分の特性が評価されない社会に生まれたとしても、助けてもらえるんじゃないかなって心の中で思っています。そうした人と人の繋がりが実感できるような社会になるといいなって心から思います。
こんな僕の思いを形にした組織が、「発達障害BAR The BRATs」です。こうした生きづらさを抱えた人が多い社会ですから、よかったらぜひ足をお運びください。心より、皆さんのご来店をお待ちしております。 最後まで、私の駄文にお付き合いいただき感謝します。本当にありがとうございました。