いじめ、母との確執…二次障害での苦悩。32歳でのASD診断、夫との出会いが転機に
更新 2024/06/05
公開 2024/06/06
更新 2024/06/05
公開 2024/06/06
はじめまして。宇樹義子(そらき・よしこ)と申します。ASD(自閉スペクトラム症)と複雑性PTSD(心的外傷後ストレス症)があります。記事執筆現在44歳。子ども時代には世間に発達障害の概念が普及していなかったため診断が遅れ、32歳で診断を受けるまでずいぶんと苦労しました。これからコラムを連載させていただくにあたり、最初となる今回は少し自己紹介をしたいと思います。
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私が32歳で診断を受けたときは、自閉特性を示す発達障害が「ASD(自閉スペクトラム症)」に統合されようとしている過渡期でした。当時の主治医からは、知的障害(知的発達症)のない自閉症であるといわれました。
私はIQの平均が100を超えています。小さい頃から勉強しなくても学校の成績がよかったため、当時は誰も私に障害があるなどと思わず、二次障害でボロボロになるまで診断が遅れました。
勉強は得意でしたが、動作がのろくてぎこちなく、体育が苦手。勉強ができるのに体育ができないのはさぼっているからだと解釈され、先生から責められたり、クラスメートから嘲笑されたりいじめられたりと大変苦労しました(これはDCD(発達性協調運動症)による特性だと思います)。
各種の感覚過敏があり、学校に毎日通うだけでぐったり疲れたり、どうしても特定の服が着られなかったりしましたが、すべて甘えや堪え性のなさだと叱責され……。
周囲の子たちと見ている世界が違い、動物や自然の風景、論理やルールや知識といった狭い範囲のことにしか興味がありませんでした。コミュニケーション障害(社会的コミュニケーション症)によっていわゆる「空気が読めない」ところもあったので、意図せずトラブルに巻き込まれることが多く、いじめられたり排除されたりして、友だちはゼロ。いつも一人でポツンとしていました。
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私は大学に入った頃からひきこもり傾向となり、さまざまな二次障害的な症状にあがくうちに10年たってしまいました。30歳になったとき、なんとか体調だけでも持ち直そうと、ある鍼灸整骨院に行くことにしました。
そこの先生に聴覚の過敏さを指摘され、それまで発達障害について自分自身が当事者だとは思っていなかったのですが、先生との会話をする中で自分も可能性があるのかもしれないと思うように。
漠然と感じていた「自分は周囲と何か違う」という違和感、生きづらさが、発達障害というひとつの言葉でピタリと説明がついたように感じました。
「感覚過敏やコミュニケーション障害(社会的コミュニケーション症)があるならしかたない、特性的にあまり無理のない『手に職』をつけよう」と、鍼灸の専門学校に通いはじめる予定だった春、東日本大震災が起きました。
私は当時、以前より精神疾患を患っていた母と2人暮らしで、ヤングケアラーのような生活をしていました。その母が震災の不安から不穏状態となり、生命の危機を感じたところで、本当に運のいいことに、SNS経由で出会った現在の夫に助け出されました。
憔悴しきっていた私はその後しばらくほぼ寝たきり。1年たった32歳のとき、ようやく病院に行く元気が出てきた感じで近くの心療内科に行って経緯を説明したところ、初診で知的障害(知的発達症)のない自閉症であるとの診断が下りました。
上にも書きましたが、母には精神疾患がありました。当時は誰も明確に根本の疾患に気づいていませんでしたが、私が家を出て10年ほどものちになって、彼女はベースにASD(自閉スペクトラム症)のある、重度の強迫性障害(強迫症)・ためこみ症だったことがわかりました。
私は物心ついた頃からいつも彼女の母親のように振る舞わざるをえませんでした。私は母を「極端に依存的な人」と感じていましたが、これはどうやら強迫性障害(強迫症)の症状のうち、非常に周囲を疲弊させる「巻き込み症状」によるものだったようです。
母はまだ幼かった私に依存をしていたのではないかと、大人になった今振り返ると感じています。さらに、母自身が病弱だったために私の世話は祖母に任されていましたが、祖母もまた私を精神的にネグレクトしていた、と思います。ワーカホリックだった父はほとんど家にいず、いるときは家族に対して非常に厳しい態度で接しました。私がティーン以上となると、母は今度は私が家庭の外の人と関わって離れていかないよう、私への執着を強めていったのです。
このようにして、私はアタッチメント(子どもが養育者や信頼できる年長者にくっついて感情を調節する機能のこと)をズタズタに破壊され、ティーンのうちに経験すべき人間関係上の発達課題も乗り越える機会もないまま20代となって、社会に出ることとなります。
この頃にはすでに二次障害の症状が深刻になっていた私は、母から逃れたい一心で働こうとしては体調を崩したり、コミュニケーション障害(社会的コミュニケーション症)や発達課題未習得からの人間関係トラブルを起こしたりして辞めることを繰り返しました。そうして私は、最終的には準ひきこもりとして、今の夫に助け出されるまで、母とほぼ2人きりの実家で過ごすことになったのです。
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脱出まで30年強かかったトラウマティックな生育環境の影響は、いまだ私の中で尾を引いています。なかなか安定して働くような体調になれません。
けれど、診断を経て、投薬や各種の福祉を受け、自分の特性を理解したことで、自分に合った生活のしかたや働き方、作業環境、セルフケアなどを模索することができるようになりました。自分の自閉的な特性にアプローチしながら、トラウマ治療もたくさん重ねてきました。
こうして、細々とですが在宅のフリーランスのライターとしてのキャリアを積んでくることができました。福祉のシステム自体や、障害者としての情報の取り方のコツにもずいぶん詳しくなりました。
実は、上につらつら書いた母は、昨年亡くなりました。私に大きな影響を残した彼女が亡くなったことは私にとってとてもインパクトのあることで、心の中のいろいろを消化する必要があるためか、現在かなり調子が悪かったりします。
しかし、ここを乗り切れば、ようやく自分の過去が本当に過去になり、純粋に前を向いて生きていけると思っています。元気になったらいろいろな活動や発信をしていこうと、今ゆっくり準備をしているところです。
これからこちらのコラムでも、大人の発達障害者として、いろいろな実体験や、その中で得た気づき、生の情報をシェアしていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
発達に凹凸のある方が最も悩まれることの一つが、「周囲に誤解されること」です。得意と不得意の差が激しいために、「やる気がないのではないか」と誤解されやすいのです。
たとえば、「計算がとても早いのに暗記が大の苦手」だったりすると、社会の先生に「わざと手を抜いているんじゃないの?」と思われてしまう。勉強だけでなく、体育にしても「特定の競技はできるのに特定の競技が苦手」といった現象が起こります。たとえば「身体能力は高く50M走は得意なのに、球技が苦手」などですね。
そのため、周囲との摩擦が生じて強いストレスを受けやすく、二次障害を生じることが多いのです。診断を受けたり特性をつかんでおけば周囲に説明もしやすくなるため、メンタルクリニックに通院して楽になったとおっしゃる方は少なくありません。
さて、宇樹さんはお母さまの発達の偏りや強迫症状の巻き込み行動に悩まされていたということですね。「強迫性障害(強迫症)」という病気は、患者さんを不安にさせて「確認行為」と呼ばれる行動を取らせます。「強迫性障害(強迫症)」という病気は、患者さん自身の行為だけでなく、患者さんの家族などにも同じように行動を取らせようとすることがあります。
患者さんを振り回し、患者さんの大切な家族も振り回す病気なのです。たとえば「鍵をかけたかどうか」を自分で何度確認しても安心できず、家族にも何度も確認させることになり、振り回される家族が疲弊してしまいます。
また、発達障害のある方では自他の境界が曖昧であることも多いため、家族などの親しい間柄の人にべったりと依存してしまう傾向にあります。高齢者の介護や幼いきょうだいのお世話を若者がすることは、ヤングケアラーと呼ばれ社会問題ともなっています。
宇樹さんの場合はさらに、親子の役割が逆転して、物理的なお世話だけでなく精神的にも頼られてしまっていた可能性が高いですね。その場合、他者との健全な関係構築を学ぶ機会が得にくく、成人してから苦労される方も少なくありません。
現在の宇樹さんが回復に向かわれているのも、ご自身の特性を理解して医療や福祉の手を借りながらご自身に合った環境を整える、といった前向きな努力を積み重ねてこられたからこそでしょう。
監修 : 森しほ
ゆうメンタル・スキンクリニック理事
・ゆうメンタルクリニック(上野/池袋/新宿/渋谷/秋葉原/品川/横浜/大宮/大阪/千葉/神戸三宮/京都/名古屋)
・ゆうスキンクリニック(上野/池袋/新宿/横浜)
・横浜ゆう訪問看護ステーション(不登校、引きこもり、子育て中の保護者のカウンセリング等お気軽に)
執筆 : 宇樹義子 (そらき・よしこ)
1980年生まれ。ASD、複雑性PTSD。2015年に発達障害当事者としての活動を始め、その後LITALICO発達ナビなどで連載開始。2019年『#発達系女子 の明るい人生計画』、2021年『1980年生まれ、佐藤愛』を出版。2024年現在、複数メディアで活動を続けながら、次の発信を模索中。